化学ノーベル賞深掘り

不斉有機触媒の開発:精密有機合成における第三の触媒戦略

Tags: 有機化学, 触媒化学, 不斉合成, 有機触媒, 精密合成

導入:精密合成を拓く不斉触媒

化学合成において、特定の分子を立体選択的に、すなわち一方の鏡像異性体(エナンチオマー)あるいはジアステレオマーとして効率的に作り分けることは、古くから極めて重要な課題でした。特に医薬品、農薬、香料など、生理活性や物性に立体化学が直接影響する分子の合成においては、望む立体異性体のみを高純度で得る技術が不可欠です。この精密な立体制御を実現する強力な手段の一つが触媒的不斉合成です。

長らく、不斉触媒合成の分野は主に金属錯体触媒と酵素触媒という二つの主要な柱によって支えられてきました。金属錯体触媒は、金属イオンのルーサイト酸性度や配位子との相互作用を利用して基質を活性化し、キラルな配位子の立体環境によって不斉誘導を行います。一方、酵素触媒は、その複雑なタンパク質構造が生み出す精密な活性ポケット内の相互作用を通じて、基質を特異的に認識・変換し、高い不斉収率を実現します。これらの触媒は、有機合成化学の発展に計り知れない貢献を果たしてきました。

しかし、金属触媒はしばしば高価な希少金属を使用し、反応後に金属汚染のリスクが伴うこと、また多くの酵素は特定の基質や反応条件に対して高い特異性を示すものの、適用範囲が限定されるといった課題も存在しました。このような背景から、金属や酵素に依存しない、第三の不斉触媒の開発が求められていました。

2021年のノーベル化学賞は、ベンジャミン・リスト教授とデイヴィッド・W・C・マクミラン教授に対し、「不斉有機触媒の開発」という画期的な貢献に対して授与されました。彼らの研究は、単純な有機分子が金属や酵素に匹敵、あるいはそれ以上の効率と選択性をもって不斉触媒として機能しうることを明確に示し、精密有機合成に新たなパラダイムをもたらしました。この「有機触媒(organocatalysis)」、特に不斉有機触媒は、従来の触媒戦略に対する強力な代替あるいは補完手段として、その後の有機合成研究に爆発的な広がりをもたらしました。

本稿では、不斉有機触媒の概念、リスト教授とマクミラン教授によるブレークスルー、その作用機構、その後の発展、そして有機合成化学におけるその意義について、技術的な詳細に踏み込んで解説します。

不斉有機触媒の概念と黎明期

「有機触媒」とは、金属原子を含まない、完全に有機分子のみで構成される触媒を指します。歴史的には、酸や塩基といった単純な有機分子が触媒として機能する例は古くから知られていました。例えば、アルドール反応やマイケル付加におけるアミンの利用などが挙げられます。しかし、これらの反応はしばしば化学量論的な量の触媒を必要としたり、効率や選択性が十分でなかったりしました。

不斉合成の観点では、キラルな有機分子を用いて不斉誘導を行う試みは、古くは19世紀末のドイツの化学者ヴィルヘルム・マイアーによる不斉シアノヒドリン合成にまで遡ることができます。彼はキラルなアルカロイドを用いてこの反応を行いました。また、アミンのような有機分子を介したエナミン形成を利用するアルドール反応における不斉誘導も、1950年代にはすでに報告がありました。例えば、プロリンを触媒として用いる intermolecular なアルドール反応は報告されていましたが、反応効率が低く、触媒量も多く必要とされ、実用的な不斉触媒合成法としては認識されていませんでした。

しかし、これらの初期の研究は、有機分子自体が触媒活性を持ちうる可能性、そしてキラルな有機分子が不斉誘導に利用できる可能性を示唆していました。不斉有機触媒が「第三の触媒戦略」として明確に認識され、広範な研究対象となるためには、その高い効率と選択性を多くの合成化学者が認識するブレークスルーが必要でした。

リストとマクミランによるブレークスルー

2000年、ベンジャミン・リスト教授(当時スクリプス研究所)は、プロリンが極めて低濃度(数モル%)でも、分子内アルドール反応だけでなく、分子間アルドール反応においてケトンをドナーとする反応に対して非常に高い不斉誘導能と収率を示すことを報告しました(図1)。これは、従来困難とされていた非対称ケトンのα位に新たな不斉中心を効率的に構築できる画期的な手法でした。

図1: プロリンを触媒とするケトン-アルデヒド間の不斉分子間アルドール反応の模式図 [ケトン] + [アルデヒド] --(プロリン触媒, 低濃度)--> [β-ヒドロキシケトン] (高エナンチオ選択性)

リストの研究の重要な点は、プロリンが単に触媒として働くだけでなく、その特異的な構造(第二級アミンとカルボン酸)が基質との多点相互作用を通じて、立体的に制御された遷移状態を形成することによって高い不斉誘導を実現していることを明らかにした点にあります。特に、カルボン酸部分がアルデヒド基質を水素結合で活性化し、アミン部分がケトンとエナミン中間体を形成することで、反応点が固定化され、プロリンのキラルな骨格によって立体的な選好性がもたらされることが示されました。このメカニズムは、酵素触媒の活性ポケットにおける基質固定化と似た側面を持ちつつも、はるかに単純な分子で実現されている点が特徴です。

ほぼ同時期、デイヴィッド・マクミラン教授(当時カリフォルニア大学バークレー校)は、イミニウムイオン中間体を経由する不斉ディールス・アルダー反応において、キラルな第二級アミン触媒(例:マクミラン触媒)が非常に高い不斉収率を与えることを報告しました(図2)。

図2: キラルアミン触媒を用いるアルデヒドとジエンの不斉ディールス・アルダー反応の模式図 [アルデヒド] + [ジエン] --(キラルアミン触媒)--> [シクロヘキセン誘導体] (高エナンチオ選択性)

マクミランの研究は、「LUMO活性化」という触媒設計の新たな概念を明確に提示しました。彼は、アルデヒドがキラルな第二級アミンと反応して生成するイミニウムイオンが、元のアルデヒドよりもLUMO(最低空分子軌道)のエネルギーが著しく低下しており、求電子性が高まっていることに着目しました。この高活性化されたイミニウムイオンとジエンとの環化付加反応は、キラルな触媒骨格の立体的な影響下で高い選択性をもって進行します。彼はこの触媒の設計において、既存の金属錯体触媒の設計思想からヒントを得つつも、完全に有機分子で機能する触媒骨格を rational に設計するアプローチをとりました。

マクミランはまた、プロリン触媒におけるエナミン形成を「HOMO活性化」として対比させました。ケトンがアミンと反応してできるエナミンは、元のケトンよりもHOMO(最高被占分子軌道)のエネルギーが高く、求核性が増大しています。このように、求電子性あるいは求核性を高める中間体を形成する有機分子触媒を体系的に研究する枠組みを提供したことも、彼の重要な貢献です。彼は「Organocatalysis」という用語を積極的に提唱し、この分野の認知度を高めることに貢献しました。

リストとマクミランの研究は、従来の常識を覆し、単純な有機分子が非常に効果的な不斉触媒として機能することを強力に示しました。彼らの発見は、世界中の化学者たちに新たな触媒開発の可能性を示唆し、不斉有機触媒研究の爆発的な発展を引き起こしました。

不斉有機触媒の反応機構と設計原理

不斉有機触媒の作用機構は多岐にわたりますが、リストとマクミランの研究で核となったのは、主に求核性触媒によるエナミン・イミニウムイオン形成を介した基質活性化メカニズムです。

1. エナミン触媒機構 (HOMO活性化)

プロリンなどの第二級アミン触媒は、ケトンやアルデヒドと反応してエナミン中間体を形成します。このエナミン中間体のHOMOは、元のカルボニル化合物と比較してエネルギーが高く、π電子密度がα-炭素上に非局在化しており、求核性が増大しています。この活性化されたエナミンが、別の基質(例えばアルデヒドやMichael受容体など)と反応する際に、キラルな触媒構造の立体的な影響を受け、特定の面からのアプローチが優先されることで高いエナンチオ選択性が実現されます。反応後、プロトン移動と加水分解により触媒が再生されます。 プロリン触媒によるアルドール反応では、特にプロリンのカルボン酸部分がアルデヒド基質を水素結合で捕捉し、触媒-ケトン由来のエナミンとアルデヒドとの間で多点相互作用を含む固定された遷移状態を形成することが、高効率な不斉誘導の鍵となります。

2. イミニウムイオン触媒機構 (LUMO活性化)

キラルな第二級アミン触媒は、アルデヒドやα,β-不飽和カルボニル化合物と反応してイミニウムイオン中間体を形成します。このイミニウムイオンは、元のカルボニル化合物よりもLUMOが低エネルギー化しており、求電子性が著しく増大しています。この活性化されたイミニウムイオンが、求核剤(例えばエノールシリルエーテルやジエンなど)と反応する際に、キラルな触媒骨格の立体障害や電子的効果によって、特定の方向からの求核攻撃が優先され、不斉中心が構築されます。反応後に加水分解を経て触媒が再生します。 この機構は、ディールス・アルダー反応、マイケル付加、Friedel-Crafts型アルキル化など、多様な求電子的な反応に応用されました。触媒のキラル骨格や電子的性質を適切に設計することで、幅広い反応と基質に対して高い不斉誘導能を示す触媒が開発されています。

3. その他の有機触媒機構

リストとマクミランの研究を契機に、上記以外にも様々な作用機構を持つ不斉有機触媒が開発されました。 * Brønsted酸/塩基触媒: キラルな第三級アミン、リン酸、チオ尿素誘導体などが、プロトンの供与・受容を介して基質を活性化し、水素結合などの弱い相互作用も利用して不斉誘導を行います。特にキラルなビナフチル骨格を持つリン酸触媒(BINOL誘導体)は、多くの反応において非常に高い不斉誘導能を示し、幅広く応用されています。 * Lewis酸/塩基触媒: キラルな有機分子が金属フリーのLewis酸(例:ボラン誘導体)やLewis塩基(例:ホスフィン、N-ヘテロ環状カルベン)として働き、基質を活性化して不斉誘導を行います。 * 協同効果触媒: 複数の触媒サイトを持つ有機分子や、複数の有機触媒を組み合わせたシステムが、基質との多点相互作用や協同的な活性化によって、より高度な不斉制御や反応性の向上が実現されています。

これらの多様な機構を持つ不斉有機触媒は、金属触媒や酵素触媒では困難だった反応や基質に対しても高い選択性を示すことがあり、不斉合成法の選択肢を大きく広げました。

その後の発展と影響

リストとマクミランによる不斉有機触媒のブレークスルー以降、この分野は急速な発展を遂げました。世界中の研究室で、様々な反応に対する新しい有機触媒の開発が精力的に行われ、既存の金属触媒や酵素触媒による手法を凌駕する例も数多く報告されています。

不斉有機触媒の大きな利点の一つは、その環境調和性(グリーンケミストリーへの貢献)です。多くの有機触媒は、安価で、入手が容易な元素(C, H, N, O, S, Pなど)から構成され、金属フリーであるため、反応後に金属汚染のリスクがありません。また、空気中や水中で安定な触媒も多く、特別な不活性雰囲気や無水条件を必要としない場合も増えています。毒性の低い溶媒や、溶媒を使用しない反応(無溶媒反応)も検討されており、合成プロセスの環境負荷低減に貢献しています。

応用面では、不斉有機触媒は医薬品合成において特に重要な役割を果たしています。複雑なキラル医薬品原薬の合成において、鍵となる不斉炭素を効率的かつ選択的に構築するステップに不斉有機触媒が活用されています。例えば、抗インフルエンザ薬であるオセルタミビル(タミフル)の合成経路の一部に、有機触媒を用いた不斉反応が採用されています。天然物合成においても、複雑な骨格を持つ分子の立体選択的な合成に、有機触媒が不可欠なツールとなっています。

また、不斉有機触媒の研究は、新たな反応開発や触媒設計の考え方にも影響を与えました。単一の機能を持つ有機分子だけでなく、複数の触媒サイトを持つ分子(分子内協同効果触媒)や、複数の単純な有機分子触媒を組み合わせる手法(分子間協同効果触媒)の研究が進み、より複雑な変換やタンデム反応への応用も可能になっています。

関連分野との繋がり

不斉有機触媒の研究は、化学の複数の分野と密接に関連しています。

このように、不斉有機触媒は有機合成化学の中心に位置しつつ、広範な分野の知識と技術を取り込みながら発展しています。

今後の展望

不斉有機触媒の分野は、ノーベル賞受賞後もなお活発な研究が続けられています。今後の展望としては、以下のような方向性が考えられます。

不斉有機触媒は、精密有機合成における強力なツールとして確立されましたが、未解決の課題や新たな可能性も多く残されています。今後も、その革新的な発展が続くことが期待されます。

まとめ

ベンジャミン・リスト教授とデイヴィッド・マクミラン教授による不斉有機触媒の開発は、精密有機合成に第三の選択肢をもたらす画期的な貢献でした。彼らは、金属錯体や酵素に依存しない、単純な有機分子が効率的かつ高選択的な不斉触媒として機能することを実験的に、そして理論的に示しました。特に、プロリンによるエナミン触媒機構と、キラルアミンによるイミニウムイオン触媒機構は、不斉有機触媒の設計原理としてその後の研究の基盤となりました。

不斉有機触媒は、その環境調和性、幅広い適用範囲、そして新たな反応性開拓の可能性から、学術研究のみならず、医薬品やファインケミカルズの産業合成においても重要な役割を果たしています。この分野の発展は、有機合成化学の発展に大きく貢献し、我々が望む機能を持つ複雑なキラル分子を、より効率的かつ持続可能な方法で合成することを可能にしています。リストとマクミランのノーベル賞受賞は、この有機触媒研究の重要性と将来性を世界に知らしめるものであり、今後の化学の発展における有機触媒の役割にさらなる注目が集まるでしょう。