化学ノーベル賞深掘り

化学的分子機械:ナノスケールでの運動制御を可能にした合成戦略

Tags: 化学的分子機械, 分子マシン, 超分子化学, 有機合成化学, ナノテクノロジー, 分子モーター

導入:化学システムに機械的運動を導入するフロンティア

2016年のノーベル化学賞は、ジャン=ピエール・ソバージュ、フレイザー・ストッダート、ベルナルト・フェリンハの三氏に「分子マシンの設計と合成」の業績に対して授与されました。この受賞は、化学の領域において、単なる静的な分子構造や反応性を超え、分子レベルでの「動き」や「仕事」といった機械工学的な概念を導入した画期的な研究の到達点を示すものです。化学的分子機械(Chemical Molecular Machines, CMMs)は、外部からのエネルギー供給(化学的、光学的、電気的、熱的など)に応答して、制御された運動や構造変化を示す分子システムを指します。この分野は、従来の化学合成や超分子化学の枠を超え、将来的なナノテクノロジー、材料科学、さらには分子レベルでの医療応用など、多岐にわたる分野に革新をもたらす可能性を秘めています。

本稿では、ノーベル賞受賞に繋がった主要な研究に焦点を当て、カテナン、ロタキサンといったメカニカリー・インターロッキング分子(Mechanically Interlocked Molecules, MIMs)の設計と合成、そして外部刺激により一方向性の回転運動を実現する分子モーターなど、化学的分子機械の技術的な詳細、その科学的な重要性、そしてその後の発展と影響について深掘りします。

研究内容の詳細:メカニカリー・インターロッキング分子と分子モーター

化学的分子機械の研究は、大きく分けて二つの流れがあります。一つは、従来の共有結合に加えて、分子間の機械的な連結(トポロジカルな結合)によって構成される「メカニカリー・インターロッキング分子(MIMs)」を基盤とするもの、もう一つは、分子自体が外部刺激に応答して方向性のある運動を行う「分子モーター」です。

メカニカリー・インターロッキング分子 (MIMs)

MIMsは、一つまたは複数の分子が互いに貫通し、切断されない限り分離できない構造を持つ分子です。代表的なものに、二つ以上の環状分子が鎖状に連結した「カテナン」と、環状分子がダンベル状分子の軸を貫通し、軸の末端にあるストッパーによって環が脱落できない構造を持つ「ロタキサン」があります。

ソバージュのカテナン合成: ソバージュの研究室は、カテナンの効率的な合成法の開発に貢献しました。従来、カテナン合成は非常に低収率でしたが、金属イオンをテンプレートとして利用する「テンプレート合成」戦略を導入しました。これは、金属イオンが配位によって二つの環状前駆体を空間的に適切に配置し、その場で環化反応や連結反応を進行させる手法です。例えば、フェナントロリン誘導体を含む環状分子と、別のフェナントロリン誘導体を含む分子鎖がCu(I)イオンに配位することで、二つの環状構造が互いに絡み合った中間体を形成します。この中間体において、開いた分子鎖の両端を閉環させることで、高収率でカテナンが得られました。このテンプレート合成は、その後のMIMs研究における基本戦略となりました。

[図解的な説明]
環状分子前駆体A + 鎖状分子前駆体B + 金属イオン
  ↓ (配位によるテンプレート効果)
環状A --- 金属イオン --- 鎖状B (絡み合った中間体)
  ↓ (鎖状Bの閉環反応)
環状A ⇔ 環状B (カテナン構造)

ストッダートのロタキサンと分子シャトル: ストッダートは、カテナンと同様にテンプレート合成を駆使してロタキサンを効率的に合成しました。特に彼の研究室は、クラウンエーテル誘導体やシクロデキストリンなどの環状分子と、電荷を持つアミン部位や芳香環を持つ線状分子を組み合わせ、分子間の電荷移動相互作用や水素結合をテンプレートとして利用しました。

ストッダートの主要な貢献の一つは、ロタキサン構造を用いて「分子シャトル」を構築したことです。これは、ロタキサン軸上の異なる位置に配置された二つの「認識部位」(環状分子が相互作用しやすい場所)の間で、環状分子が外部刺激(酸化還元、pH変化、光照射など)に応答して可逆的に移動するシステムです。この環状分子の軸上の位置制御は、分子レベルでのスイッチやセンサー、さらにはドラッグデリバリーシステムへの応用が期待されました。例えば、軸上の二つの芳香環サイトの電子状態を酸化還元で変化させることにより、環状分子(シクロファンなど)が優先的に存在するサイトを制御するシステムが報告されています。

[図解的な説明]
ロタキサン軸 (-ストッパー-[サイトA]-[サイトB]-ストッパー-) + 環状分子
  ↓ (刺激1)
環状分子がサイトAに優先的に存在
  ↓ (刺激2)
環状分子がサイトBに優先的に存在

分子モーター

フェリンハの研究室は、外部からのエネルギー(特に光エネルギー)を利用して一方向性の回転運動を行う分子モーターの開発に成功しました。これはMIMsとは異なり、共有結合骨格自体のコンホメーション変化と、その変化が引き起こす全体的な運動の方向性を制御することが鍵となります。

フェリンハの最初の分子モーターは、ビストリコヘリセン骨格を持つキラルなアルケン分子を基盤としていました。この分子は、光異性化(シス-トランス異性化)と熱異性化を巧みに組み合わせることで、一方向性の回転を実現します。

  1. 光異性化: 不斉中心を持つアルケンに対し、片偏光を照射すると、立体選択的なシス-トランス異性化が起こります。この異性化は、分子全体に非平面的な構造変化をもたらします。
  2. ラセミ化障壁を越える熱異性化: 光異性化により生じた構造は、熱的に不安定なコンホメーションを含んでいます。このコンホメーションは、比較的低い活性化エネルギーでラセミ化障壁(またはヘルシティ反転障壁)を乗り越え、より安定なコンホメーションへと熱的に再配置します。この熱異化の過程で、分子は構造的な「ラチェット」機構により、一方向へのみ回転が進みます。
  3. 再び光異性化: 安定なコンホメーションとなった後、再び光を照射すると、元の立体配置とは逆のシス-トランス異性化が起こり、再び不安定なコンホメーションを経由して熱的に安定化することで、さらに同じ方向に回転が進行します。

この光と熱のサイクルを繰り返すことで、分子は連続的に一方向性の回転運動を行います。フェリンハは、この分子モーターをさらに発展させ、ガラス表面に固定した分子モーターがミクロなガラス棒を回転させるデモンストレーションなども行い、分子が実際に外部に対して「仕事」をすることができる可能性を示しました。

その後の発展と影響

ノーベル賞受賞者たちの先駆的な研究は、化学的分子機械の分野に爆発的な研究の波をもたらしました。MIMsについては、カテナンやロタキサンを基盤とした分子スイッチ、分子センサー、分子アレイ、さらには分子レベルでの論理ゲートや記憶素子としての応用研究が進展しました。また、より複雑な構造を持つMIMs、例えばソバージュが合成したクレイトン(結び目構造)や、ストッダートらが合成したBorromeanリングなどの合成法の開発も進んでいます。

分子モーターの分野では、光、熱、電気、化学反応など、様々なエネルギー源に応答する多様な骨格を持つ分子モーターが設計・合成されています。回転運動だけでなく、線形運動、開閉運動など、様々なタイプの分子機械が開発されています。これらの分子モーターを材料中に組み込み、マクロなスケールでの運動や機能発現を目指す研究(例:分子モーターを組み込んだ液晶材料の変形、高分子ゲル内での物質輸送制御など)も活発に行われています。

これらの分子機械は、将来的にはナノマシンとしての応用が期待されています。例えば、標的部位まで薬剤を輸送するドラッグデリバリーシステム、ナノスケールでの製造プロセス、環境応答性のスマート材料、さらには分子コンピュータの開発などに繋がる可能性があります。

関連分野との繋がり

化学的分子機械の研究は、多くの関連分野と密接に連携しています。

今後の展望

化学的分子機械の研究は、まだ発展途上の分野です。今後の課題としては、エネルギー変換効率の向上、運動の方向性・タイミング・速度のより精密な制御、より複雑な運動パターン(協調運動、自己組織化による機能発現など)の実現、そしてこれらの分子機械をマクロなシステムや実用的なデバイスに組み込む技術の確立が挙げられます。生体内の分子システムに学びながら、化学合成の力で新たな機能を持つ分子機械を創り出す研究は、化学の新たな地平を切り拓き続けるでしょう。

まとめ

ソバージュ、ストッダート、フェリンハのノーベル化学賞受賞研究は、化学の世界に「動き」と「仕事」という動的な概念を本格的に導入しました。彼らが開発したメカニカリー・インターロッキング分子や分子モーターは、単に美しい分子構造であるだけでなく、外部刺激に応答して制御された運動を行う能力を持つ、文字通りの「分子機械」です。この分野の研究は、超分子化学、有機合成化学、物理化学、材料科学、ナノテクノロジー、生物学など、多岐にわたる分野を結びつけ、分子レベルでの機能制御に基づいた革新的な技術や材料の創出に向けた強力な基盤を提供しています。化学的分子機械は、21世紀の化学が目指す、分子レベルでの精密な制御と機能創出という目標に向けた、重要な一歩であり続けています。