クライオ電子顕微鏡法:生体高分子構造解析に革命をもたらした技術
はじめに:生体高分子構造解析のブレークスルー
生物学的なプロセスを分子レベルで理解するためには、そのプロセスを担う生体高分子(タンパク質、核酸、複合体など)の三次元構造情報が不可欠です。長い間、高分解能での構造解析手法としては、主にX線結晶構造解析や核磁気共鳴(NMR)分光法が用いられてきました。しかし、これらの手法にはそれぞれ限界が存在しました。X線結晶構造解析は結晶化が困難な試料には適用できず、NMRは比較的低分子量のタンパク質に限られるという制約がありました。特に、膜タンパク質や非常に大きな分子複合体、あるいは機能中の構造変化を捉えることは極めて困難でした。
このような背景において、溶液状態に近い生体高分子の構造を高分解能で解析することを可能にしたクライオ電子顕微鏡法(Cryo-EM)の発展は、構造生物学、ひいては生命科学全体に革命をもたらしました。2017年のノーベル化学賞は、このクライオEMによる生体高分子構造解析法の開発に貢献したジャック・デュボシェ、ヨアヒム・フランク、リチャード・ヘンダーソンに授与されました。これは、化学が物理学や生物学とどのように深く結びつき、新たな解析技術が生化学的な理解をどのように深めるかを示す顕著な例と言えます。本稿では、この画期的な技術の原理と詳細、そしてそれがもたらした影響について掘り下げて解説します。
クライオ電子顕微鏡法の原理と技術詳細
クライオ電子顕微鏡法は、凍結した溶液中の試料を電子顕微鏡で観察し、得られた大量の二次元投影像から三次元構造を再構成する手法です。その核心的な技術は以下の要素から構成されます。
1. 試料の急速凍結(Vitrification)
生体試料を電子顕微鏡で観察するには、試料を真空下に置く必要があります。しかし、水溶液中の生体試料を単純に凍結させると、氷結晶が生成し、これが試料の構造を破壊したり、コントラストを低下させたりする問題が生じます。この問題を解決したのが、液体エタンなどの冷却剤に試料溶液を極めて短時間(ミリ秒オーダー)で浸漬することで、非晶質の氷(アモルファス氷)として凍結させる急速凍結法です。ジャック・デュボシェらは、このガラス化凍結技術(vitrification)を開発し、生体高分子を溶液中のネイティブに近い状態で固定することに成功しました。試料溶液は、数マイクロリットルの量が、電子顕微鏡用のグリッド(通常はカーボンや金などの薄膜が張られたメッシュ)上に載せられ、余分な水分がブロッティングペーパーで取り除かれた後、急速凍結されます。これにより、氷結晶の成長を抑え、分子がランダムな配向でアモルファス氷中に捕捉されます。
2. 低ドーズ観察
電子線は試料に損傷を与えるため、高分解能画像を得るためには電子線の照射量を最小限に抑える必要があります。これを低ドーズ(low dose)観察と呼びます。しかし、電子線量を減らすと信号対雑音比(S/N比)が著しく低下し、個々の分子の画像は非常にノイズが多くなります。この課題を克服したのが、ヨアヒム・フランクらが開発した画像解析手法です。
3. 単粒子解析法(Single-Particle Analysis, SPA)
低ドーズで撮影された多数の二次元投影像(通常は数十万枚から数百万枚)から、ノイズに埋もれた分子の像を抽出し、それらを統計的に処理することで高分解能構造を再構成するのが単粒子解析法です。この手法は、以下のステップで構成されます。
- 粒子選別: 撮影された画像の中から、個々の分子像の候補を自動または手動で選び出します。
- クラスターリング: 選ばれた分子像を、その配向に基づいてグループ分けします。似たような配向を持つ画像を集めることで、平均化によるS/N比の向上が可能になります。
- アライメント: 同じクラスター内の画像を、平行移動や回転によって互いに位置合わせします。
- 三次元再構成: アライメントされた二次元投影像群から、コンピュータアルゴリズムを用いて三次元密度マップを計算します。この再構成には、フーリエ再構成などの手法が用いられます。
- 精密化: 得られた三次元マップと各投影像との間の誤差を最小化するように、アライメントや再構成を繰り返し洗練させます。
ヨアヒム・フランクは、単粒子解析における画像処理アルゴリズムの基盤を築き、特に異なる角度から見た二次元画像を統合して三次元構造を構築する技術開発に大きく貢献しました。
4. 高分解能化への貢献
リチャード・ヘンダーソンは、バクテリオロドプシンという膜タンパク質の構造解析にクライオEMを用い、低ドーズ条件でも高分解能(約3.5 Å)での構造解析が可能であることを初めて示しました。これは、特に当時結晶化が困難であった膜タンパク質の構造解析におけるクライオEMの潜在能力を実証した画期的な成果でした。彼の研究は、その後のクライオEM装置や画像処理技術の発展を促しました。
近年のクライオEMの分解能向上には、冷却CCDカメラに代わる直接検出型カメラ(direct electron detector)の登場と、GPUを用いた高速な画像処理の発展が大きく寄与しています。これにより、以前は到達困難であった原子分解能(2 Å以下)での構造解析も可能になり、「分解能革命(Resolution Revolution)」と呼ばれる急速な進歩が起こりました。
その後の発展と影響
クライオEM法の発展は、構造生物学の対象を大きく広げました。X線結晶構造解析では難しかった、以下のような生体分子や複合体の構造解析が容易になりました。
- 巨大分子複合体: リボソーム、スプライソソーム、プロテアソーム、ウイルスカプシドなど、数メガダルトンを超える巨大な複合体の構造が次々と解明されました。
- 膜タンパク質: GPCR、イオンチャネル、トランスポーターなど、医薬品開発において重要な標的となる膜タンパク質の構造情報が飛躍的に増加しました。
- 構造の不均一性: 溶液中の様々なコンフォメーションや、反応中間状態の構造を同時に解析することも可能になり、分子の動態理解が進みました。
- 少ない試料量: 結晶化に比べて必要な試料量が圧倒的に少なくて済むため、単離が困難な希少な生体分子の解析も可能になりました。
これらの構造情報は、生化学的な機能メカニズムの理解を深めるだけでなく、構造に基づいた薬剤設計(Structure-Based Drug Design, SBDD)に不可欠な基盤情報を提供し、創薬研究にも大きな影響を与えています。例えば、病原体のタンパク質構造を解析し、その機能を阻害する薬剤を設計するといったアプローチがより効率的に行えるようになりました。
関連分野との繋がり
クライオEMは、化学、物理学、生物学、計算科学が融合した典型的な分野です。
- 化学・生化学: 解析対象となる生体高分子の調製、機能解析は生化学の中核であり、構造化学としての側面も持ちます。
- 物理学: 電子光学、電子線の試料相互作用、極低温技術、信号検出など、基礎的な物理学の原理に基づいています。
- 生物学: 得られた構造情報は、細胞生物学、分子生物学、医学など、様々な生物学的な現象を理解するための鍵となります。
- 計算科学: 大量の画像データの処理、アライメント、三次元再構成、構造精密化には高度なアルゴリズムと計算能力が不可欠であり、画像処理、機械学習などの技術が応用されています。
特に、溶液中の生体高分子をアモルファス氷に固定するという技術は、物理化学的な知見に基づいています。また、得られる三次元マップは電子散乱ポテンシャルの分布を示しており、これを原子モデルに変換するプロセスは、化学結合や立体配置に関する化学的な知識に基づいています。
今後の展望
クライオEM技術は今なお急速な進歩を遂げています。今後の展望としては、以下のような点が挙げられます。
- 分解能のさらなる向上: 理論的な限界に近づきつつありますが、ノイズ抑制技術やデータ処理アルゴリズムの改善により、更なる高分解能化が期待されています。
- より複雑な系の解析: 細胞内構造のin situ解析(クライオ電子トモグラフィーなど)や、より動的な分子プロセスの捉え方などが研究されています。
- データ解析の自動化・効率化: より大規模なデータセットを効率的に処理し、迅速に構造情報を得るためのAIや機械学習の活用が進んでいます。
- 創薬への応用拡大: 創薬パイプラインにおけるクライオEMの活用がさらに一般化し、新たな標的分子に対する薬剤開発を加速させることが期待されます。
まとめ
クライオ電子顕微鏡法の開発は、生体高分子の三次元構造解析における長年の課題を克服し、生命の分子機構の理解に深く貢献しました。ジャック・デュボシェ、ヨアヒム・フランク、リチャード・ヘンダーソンの先駆的な研究は、試料の急速凍結、画像処理アルゴリズム、そして高分解能化の可能性の実証という、この強力な技術の礎を築きました。クライオEMは、もはやX線結晶構造解析やNMRを補完する技術にとどまらず、多くの生体高分子にとって第一選択の構造解析手法となりつつあります。この技術は、構造生物学だけでなく、医学、薬学、材料科学など、広範な分野に今後も計り知れない影響を与え続けるでしょう。これは、異なる科学分野の知見が融合することで、いかにブレークスルーが生まれるかを示す輝かしい事例であり、化学が生命現象の解明において果たす中心的な役割を改めて浮き彫りにしています。