密度汎関数理論(DFT):電子状態計算の基礎とその化学への応用
導入:電子状態計算の革新
化学反応や物質の性質は、原子核と電子の相互作用によって支配されています。これらの相互作用を記述する根本的な方程式はシュレディンガー方程式ですが、多電子系に対してこの方程式を厳密に解くことは不可能であるため、近似手法が必要となります。長らく、化学においてはハートリー-フォック(HF)法とその発展形であるポストHF法(配置間間相互作用法(CI)、メラー・プレセット摂動論(MPn)、結合クラスター法(CC)など)が主要な電子状態計算手法として用いられてきました。これらの手法は波動関数を基盤としており、原理的には高精度な計算が可能ですが、計算コストが電子数のべき乗に比例するため、取り扱える系のサイズには限界がありました。
このような状況において、電子状態計算のパラダイムシフトをもたらしたのが、密度汎関数理論(Density Functional Theory, DFT)です。DFTは、波動関数ではなく、電子密度というより基本的な物理量を基礎とする理論です。1964年にPierre HohenbergとWalter Kohnによって提出されたホーヘンベルク・コーンの定理は、基底状態のエネルギーが外部ポテンシャル(原子核の位置によって決まる)の一意な汎関数であることを示し、さらに外部ポテンシャルも基底状態の電子密度によって一意に決定されることを証明しました。これは、基底状態の性質を記述する上で、波動関数のような複雑な多体関数を用いる必要はなく、電子密度というより単純な三次元空間上の関数で十分であることを意味しており、DFTの理論的な基礎を築きました。Walter Kohnはこの貢献により、1998年のノーベル化学賞を受賞しました(John Popleは量子化学計算手法の開発への貢献で同時受賞)。
DFTは、その後の発展により、原理的な厳密性を保ちつつ、HF法やポストHF法に比べて計算コストを劇的に削減できる可能性を示し、化学、物理学、材料科学など幅広い分野で最も広く用いられる電子状態計算手法の一つとなりました。
研究内容の詳細:ホーヘンベルク・コーンの定理とコーン・シャム方程式
ホーヘンベルク・コーンの定理
ホーヘンベルク・コーンの定理は二つの部分からなります。
-
第一定理: 外部ポテンシャル $V_{\text{ext}}(\mathbf{r})$ は、基底状態の電子密度 $\rho_0(\mathbf{r})$ によって一意に決定される(定数を除いて)。したがって、基底状態の全エネルギー $E_0$ は、$\rho_0(\mathbf{r})$ の一意な汎関数 $E[\rho_0]$ として表現できる。 $E[\rho] = T[\rho] + E_{\text{ee}}[\rho] + \int V_{\text{ext}}(\mathbf{r}) \rho(\mathbf{r}) d\mathbf{r}$ ここで、$T[\rho]$ は運動エネルギー、$E_{\text{ee}}[\rho]$ は電子間相互作用エネルギーの汎関数です。これらの汎関数形式は定理からは明らかになりませんが、基底状態のエネルギーが密度の汎関数として存在することが示された点は重要です。
-
第二定理: 基底状態の電子密度 $\rho_0$ は、系のハミルトニアンに対応するエネルギー汎関数 $E[\rho]$ を最小化する密度である。 これは変分原理であり、$E[\rho] \ge E_0$ が任意の密度 $\rho$ に対して成り立ち、$E[\rho_0] = E_0$ となります。この定理により、基底状態のエネルギーを求めるためには、波動関数空間ではなく、より扱いやすい密度の空間で汎関数を最小化すればよいことが示されました。
コーン・シャム方程式
ホーヘンベルク・コーンの定理は原理的な正当性を示しましたが、具体的なエネルギー汎関数の形は与えられませんでした。この問題を解決し、DFTを実用的な計算手法へと発展させたのが、Walter KohnとLu Jeu Shamが1965年に導入したコーン・シャム(Kohn-Sham, KS)法です。
コーン・シャム法では、相互作用する多電子系と「相互作用しない仮想的な電子系」を考えます。この仮想的な系は、実際の系と同じ基底状態電子密度を持つように設計されます。相互作用しない仮想系のシュレディンガー方程式は、単一粒子の軌道(コーン・シャム軌道)に関する方程式に分離できます。
$[-\frac{1}{2}\nabla^2 + V_{\text{eff}}(\mathbf{r})] \phi_i(\mathbf{r}) = \epsilon_i \phi_i(\mathbf{r})$
ここで、$\phi_i$ はコーン・シャム軌道、$\epsilon_i$ は軌道エネルギーです。仮想系の電子密度は、これらの軌道を用いて $\rho(\mathbf{r}) = \sum_i |\phi_i(\mathbf{r})|^2$ (占有軌道について総和)と表されます。重要なのは、この仮想系の電子密度が、実際の相互作用する系の基底状態電子密度と等しくなるように、有効ポテンシャル $V_{\text{eff}}(\mathbf{r})$ を定義することです。
コーン・シャム系の全エネルギー汎関数は、以下の形式で表されます。
$E_{\text{KS}}[\rho] = T_S[\rho] + E_{\text{H}}[\rho] + E_{\text{xc}}[\rho] + \int V_{\text{ext}}(\mathbf{r}) \rho(\mathbf{r}) d\mathbf{r}$
ここで、$T_S[\rho]$ は相互作用しない仮想系の運動エネルギー汎関数、$E_{\text{H}}[\rho]$ はハートリー項として知られる古典的なクーロン相互作用エネルギー汎関数です。
$T_S[\rho] = \sum_i \int \phi_i^*(\mathbf{r}) (-\frac{1}{2}\nabla^2) \phi_i(\mathbf{r}) d\mathbf{r}$ $E_{\text{H}}[\rho] = \frac{1}{2} \iint \frac{\rho(\mathbf{r})\rho(\mathbf{r}')}{|\mathbf{r}-\mathbf{r}'|} d\mathbf{r} d\mathbf{r}'$
ホーヘンベルク・コーンの定理における全運動エネルギー $T[\rho]$ と電子間相互作用エネルギー $E_{\text{ee}}[\rho]$ は、コーン・シャム系における対応する項 $T_S[\rho]$ および $E_{\text{H}}[\rho]$ とは異なります。この差分、すなわち「相互作用する実際の系の運動エネルギーと相互作用しない仮想系の運動エネルギーの差」と、「実際の電子間相互作用エネルギーと古典的クーロン相互作用エネルギーの差(量子力学的な交換相互作用と相関相互作用)」の合計が、$E_{\text{xc}}[\rho]$、すなわち交換相関(Exchange-Correlation, XC)汎関数として定義されます。
$E_{\text{xc}}[\rho] = (T[\rho] - T_S[\rho]) + (E_{\text{ee}}[\rho] - E_{\text{H}}[\rho])$
コーン・シャム法において、有効ポテンシャル $V_{\text{eff}}(\mathbf{r})$ は、このエネルギー汎関数 $E_{\text{KS}}[\rho]$ を密度に対して変分することで得られます。
$V_{\text{eff}}(\mathbf{r}) = \frac{\delta E_{\text{KS}}}{\delta \rho(\mathbf{r})} = V_{\text{ext}}(\mathbf{r}) + V_{\text{H}}(\mathbf{r}) + V_{\text{xc}}(\mathbf{r})$ $V_{\text{H}}(\mathbf{r}) = \frac{\delta E_{\text{H}}}{\delta \rho(\mathbf{r})} = \int \frac{\rho(\mathbf{r}')}{|\mathbf{r}-\mathbf{r}'|} d\mathbf{r}'$ $V_{\text{xc}}(\mathbf{r}) = \frac{\delta E_{\text{xc}}}{\delta \rho(\mathbf{r})}$
ここで $V_{\text{xc}}(\mathbf{r})$ は交換相関ポテンシャルと呼ばれます。コーン・シャム方程式は、この有効ポテンシャルが軌道によって決まる密度に依存するため、自己無撞着場(Self-Consistent Field, SCF)計算によって解かれます。すなわち、初期密度から $V_{\text{eff}}$ を計算し、KS方程式を解いて新しい軌道と密度を得て、収束するまで繰り返します。
DFT計算の精度は、この未知の交換相関汎関数 $E_{\text{xc}}[\rho]$ の近似の質に完全に依存します。
交換相関汎関数の発展
$E_{\text{xc}}[\rho]$ の正確な汎関数形式は知られていないため、様々な近似が開発されてきました。これがDFT計算の多様性と精度に大きく影響しています。
-
局所密度近似 (Local Density Approximation, LDA): 最も単純な近似であり、一様電子ガスに対する交換相関エネルギー密度から構築されます。系の各点における交換相関エネルギー密度が、その点の電子密度のみに依存すると仮定します。 $E_{\text{xc}}^{\text{LDA}}[\rho] = \int \rho(\mathbf{r}) \epsilon_{\text{xc}}^{\text{unif}}(\rho(\mathbf{r})) d\mathbf{r}$ ここで $\epsilon_{\text{xc}}^{\text{unif}}(\rho)$ は密度 $\rho$ の一様電子ガスにおける単位粒子あたりの交換相関エネルギーです。LDAは固体など比較的密度の変化が緩やかな系では成功を収めましたが、分子など密度の勾配が大きい系では誤差が大きくなる傾向があります。結合長や振動数の過小評価などが知られています。
-
一般化勾配近似 (Generalized Gradient Approximation, GGA): LDAの欠点を改善するために、電子密度だけでなく、その勾配 $|\nabla \rho(\mathbf{r})|$ も考慮に入れます。 $E_{\text{xc}}^{\text{GGA}}[\rho] = \int \rho(\mathbf{r}) f_{\text{xc}}(\rho(\mathbf{r}), |\nabla \rho(\mathbf{r})|) d\mathbf{r}$ GGA汎関数には、PBE、BLYP、RPBEなど多くの種類があります。GGAはLDAよりも分子の結合エネルギーや構造をよく再現することが多く、化学計算で広く用いられるようになりました。
-
メタGGA (meta-GGA): 電子密度と勾配に加えて、運動エネルギー密度 $\tau(\mathbf{r}) = \sum_i \frac{1}{2}|\nabla \phi_i(\mathbf{r})|^2$ なども考慮に入れることで、さらに精度向上を目指した汎関数です。TPSS、MN15Lなどが含まれます。
-
ハイブリッド汎関数 (Hybrid Functionals): HF理論における正確な交換エネルギーの一部(通常20-25%程度)をGGAまたはメタGGAの交換汎関数と混合することで、相関エネルギー部分を調整するアプローチです。HF交換項は長距離の交換相互作用を正確に記述できる一方、短距離の相関を考慮できません。DFT交換汎関数はその逆の性質を持ちます。これらを組み合わせることでバランスを取ります。B3LYP、PBE0、HSEなどが代表的です。ハイブリッド汎関数は、多くの化学的な性質(反応エネルギー、遷移状態、分光学的性質など)に対して比較的高い精度を示すため、分子計算で非常に広く利用されています。
-
長距離補正 (Long-range corrected, LRC) 汎関数: ハイブリッド汎関数のさらなる発展として、交換相互作用を距離に応じて分け、短距離ではDFT交換、長距離ではHF交換を用いる汎関数です。チャージトランスファー励起やリュードベリ状態の計算精度を向上させます。CAM-B3LYP、ωB97Xなどが代表的です。
-
分散力補正 (Dispersion Corrections): 標準的な局所・半局所的な汎関数は、ファンデルワールス力(分散力)のような非共有結合的な相互作用を正確に記述できません。これは、分散力が本質的に非局所的な電子相関効果であるためです。これを補正するために、経験的な補正項(DFT-D)や、非経験的な非局所相関(vdW-DF)などの手法がDFT計算に組み込まれています。
これらの汎関数の階層構造は、「ヤコブの梯子(Jacob's Ladder)」として表現されることがあります。理論的な厳密性は増しますが、実用性や計算コスト、そして汎関数自体のパラメータ調整の難しさなど、トレードオフが存在します。
その後の発展と影響
DFTは、その計算効率の高さと、様々な系に対する比較的良好な精度から、瞬く間に計算化学の中心的な手法となりました。その影響は計り知れません。
- 分子構造最適化と反応経路計算: 小さな分子から数百原子を含む比較的大きな分子まで、その平衡構造や遷移状態構造を効率的に決定できるようになりました。反応経路のエネルギー障壁を計算することで、反応機構の解明や予測が可能になりました。
- 分光学的性質の計算: IR、ラマン、NMR、UV-Visスペクトルなど、様々な分光学的性質を計算する基盤となりました。特に、振動計算に基づくIR/ラマンスペクトルの計算は、実験結果の帰属や解析に広く用いられています。NMRシールド定数計算による構造決定支援も一般的です。
- 物性計算: 固体や表面の電子構造、バンド構造、状態密度、誘電率、磁性などの計算に不可欠なツールとなりました。触媒表面での吸着、反応過程の解析、新しい材料の設計などに広く応用されています。
- 生化学・生物物理学への応用: タンパク質中の金属中心の電子状態、酵素反応機構、薬剤とターゲット分子の相互作用解析など、生体分子系への応用も進んでいます。QM/MM(量子力学/分子力学)ハイブリッド法におけるQMパートとしてDFTが用いられることも多いです。
- 教育と研究: 学部・大学院レベルの計算化学教育において、DFTは必須の内容となっています。研究の現場では、実験と理論計算(特にDFT)を組み合わせて現象を理解・予測することが一般的となり、研究の推進において不可欠な役割を果たしています。
DFT計算は、特定の汎関数や基底関数の選択に依存するため、その結果の信頼性を評価するには慎重さが必要です。しかし、様々な物理・化学的性質に対して高い精度を発揮する汎関数が開発され、経験的な検証が積み重ねられた結果、多くの化学研究者にとって日常的に利用できる強力なツールとなっています。
関連分野との繋がり
DFTは、理論化学・計算化学の中心に位置するだけでなく、多くの化学分野や関連分野と深く繋がっています。
- 有機化学: 有機反応機構の解析、遷移状態の特定、立体選択性や位置選択性の予測、新規反応の設計。
- 無機化学: 錯体や金属クラスターの電子構造・磁性の解析、配位子の影響評価、触媒設計。
- 物理化学: 分子の電子構造、分光学的性質、反応速度論、分子間相互作用、熱力学的性質の計算。
- 材料化学: 固体材料の電子構造、バンド構造、欠陥、表面特性、触媒特性、電池材料、熱電材料などの設計・評価。
- 触媒化学: 均一・不均一触媒における反応メカニズム解析、活性サイトの特定、触媒設計。
- 生化学・生物物理学: 酵素反応機構、タンパク質-リガンド相互作用、DNA・RNAの電子状態、金属酵素中心の解析。
- 固体物理学: 結晶構造、バンド構造、フェルミ面、物性計算。
- 地球化学・環境化学: 鉱物表面の吸着、溶液中の化学種、環境汚染物質の反応性解析。
DFTは、これらの分野の研究において、実験だけでは得られないミクロな視点からの知見を提供し、現象の理解を深め、新たな発見や材料設計の指針を与えています。
今後の展望
DFTは既に成熟した分野とも言えますが、依然として活発な研究開発が行われています。
- 汎関数の開発: より広範な化学系に対して高い精度を発揮する新しい交換相関汎関数の開発は継続的な課題です。特に、分散力、強相関系、励起状態、ダイナミクスなどの記述精度向上が求められています。機械学習を用いた汎関数開発も試みられています。
- 計算効率の向上: より大きな系や長時間のダイナミクス計算を可能にするため、アルゴリズムの改良や並列計算技術の活用が進んでいます。線形スケーリング手法の開発も重要です。
- 応用範囲の拡大: 高分子、ソフトマター、液体、電解液など、これまでDFTの適用が難しかった複雑な系への応用研究が進んでいます。
- 時間依存DFT (TD-DFT): 光吸収スペクトルや励起状態ダイナミクスを記述する時間依存DFTは、光化学や分光化学分野で非常に重要なツールとなっていますが、その精度や適用範囲の拡大が引き続き研究されています。
- 第一原理分子動力学: DFT計算と分子動力学を組み合わせることで、有限温度下での原子の動きや相転移などをシミュレーションできるようになりました。
まとめ
密度汎関数理論(DFT)は、波動関数を用いる従来の手法に代わり、電子密度を基礎とする電子状態計算手法として登場し、計算化学に革命をもたらしました。ホーヘンベルク・コーンの定理によってその理論的正当性が確立され、コーン・シャム法によって実用的な計算が可能となりました。その鍵となる交換相関汎関数の近似の発展とともに、DFTは分子、固体、表面など、幅広い化学系や関連分野の研究において不可欠なツールとなっています。
DFTの計算効率の高さは、これまで理論計算によるアプローチが困難であった比較的大きな系や複雑な現象の解析を可能にし、様々な物理・化学的性質の理解、反応機構の解明、そして新しい材料や分子の設計に大きく貢献しています。もちろん、交換相関汎関数の近似に由来する限界は存在しますが、継続的な理論開発と計算技術の進歩により、DFTは今後も科学研究において中心的な役割を果たし続けると考えられます。Walter Kohnのノーベル賞受賞は、この理論が化学の根幹をなす電子状態の理解と、それに基づいた応用研究にいかに大きな影響を与えたかを明確に示しています。