生体高分子質量分析法:MALDIとESIが拓いた巨大分子解析の新時代
導入:質量分析法のブレークスルー
質量分析法は、分子の質量電荷比(m/z)を測定することで、その組成や構造に関する情報を得る強力な分析ツールです。古くは原子や低分子化合物の精密質量測定に用いられてきましたが、生体高分子、特にタンパク質や核酸のような巨大で不安定な分子に対しては、従来のイオン化法(例えば電子イオン化 (EI) や化学イオン化 (CI))が適用困難でした。これらの分子は、加熱や電子衝撃によって容易に分解・断片化してしまうため、 intact な分子イオンを生成することが極めて困難であったからです。
この課題に対し、1980年代後半から1990年代初頭にかけて開発された二つの革新的なソフトイオン化法が、生体高分子質量分析法の時代を切り拓きました。それが、マトリックス支援レーザー脱離イオン化法 (Matrix-Assisted Laser Desorption/Ionization, MALDI) と、エレクトロスプレーイオン化法 (Electrospray Ionization, ESI) です。これらの技術は、巨大な分子を分解することなく気相中にイオン化することを可能にし、分析可能な質量範囲を劇的に拡大しました。この功績により、ジョン・フェン(John B. Fenn)、田中耕一、クルト・ヴュートリッヒ(Kurt Wüthrich)の3氏は、2002年のノーベル化学賞を共同受賞しました。フェン氏と田中氏はそれぞれ独立にESIとMALDIの開発・改良に貢献し、ヴュートリッヒ氏はこれらの技術、特にESI-NMRを組み合わせた溶液中生体高分子の構造決定法の開発で質量分析の応用範囲を広げました(本記事ではMALDIとESIの開発技術自体に焦点を当てます)。
MALDIとESIの登場は、化学分析だけでなく、生物学、医学、薬学といった関連分野の研究手法に革命をもたらしました。特に、プロテオミクスやメタボロミクスの発展は、これらのイオン化技術なくしては考えられません。
研究内容の詳細:ソフトイオン化法の原理
マトリックス支援レーザー脱離イオン化法 (MALDI)
MALDI法は、分析対象の分子(アナライト)を、紫外線または赤外線を吸収する低分子化合物である「マトリックス」結晶中に均一に分散させ、この混合物に対してパルスレーザー光を照射することで、アナライト分子を分解せずに気相中にイオン化する手法です。
発見の経緯と原理
MALDIの概念は、西ドイツのフランクフルト大学のHillenkamp、Karas、Bachmannらによって1985年に初めて報告されましたが、巨大分子への適用と実用化には、より適切なマトリックスの選択が不可欠でした。1988年、日本の島津製作所の田中耕一氏らは、コバルト超微粒子とグリセリンの混合物をマトリックスとして用いることで、質量数約34,000のカルモジュリンなどのタンパク質を無傷でイオン化できることを実証しました。ほぼ同時期に、ドイツのフランクフルト大学のKarasとHillenkampは、ニコチン酸などの有機酸をマトリックスとして用いる方法を発表し、後にこれが一般的なMALDI法として広く普及しました。ノーベル賞の授与理由は、田中氏の「生体高分子の質量分析のためのソフト脱離イオン化法の開発」であり、金属超微粒子を用いた方法論に焦点を当てたものです。
原理としては、以下のステップが考えられています。
- 試料調製: アナライト分子をマトリックス溶液に溶解し、混合物をターゲットプレート上で共結晶化させます。このとき、アナライトはマトリックス結晶中に「閉じ込められた」状態になります。
- レーザー照射: パルスレーザー(通常は窒素レーザー、λ=337 nm)をマトリックス結晶に照射します。マトリックス分子は効率よくレーザーエネルギーを吸収し、結晶の局所的な瞬間加熱と蒸発(アブレーション)を引き起こします。
- 脱離・イオン化: アブレーションの際に、マトリックス分子とともにその中に含まれていたアナライト分子が気相中に放出されます。このプラズマ状のプルームの中で、マトリックス分子からアナライト分子へのプロトン移動などによってイオン化(主にプロトン付加による [M+H]+ やアルカリ金属付加による [M+Na]+, [M+K]+ イオン)が発生すると考えられています。マトリックス分子が過剰に存在するため、アナライト分子同士の衝突による分解が抑制されます。
- 質量分析: 生成したイオンは質量分析計に導入され、m/z比に応じて分離・検出されます。MALDI-MSでは、通常、飛行時間型質量分析計 (Time-of-Flight MS, TOF MS) が用いられます。TOF MSは原理的に質量範囲の制限が少なく、パルスイオン化であるMALDIと相性が良いためです。
[Analite] + [Matrix] --co-crystallize--> [Analite@Matrix crystal]
[Analite@Matrix crystal] + hv (Laser) --> [Plume of gas-phase Matrix + Analite + ions]
[Analite] + [Matrix]+(H+) --> [Analite+H]+ + [Matrix] (Protonation in plume)
or
[Analite] + Na+ --> [Analite+Na]+ (Cationization)
MALDI法は、サンプル調製が比較的容易で、高感度であり、主に一価イオン(もしくは数個の付加イオン)を生成するため、スペクトル解釈が比較的容易であるという利点があります。
エレクトロスプレーイオン化法 (ESI)
ESI法は、分析対象の分子を溶液状態から直接、イオン化して気相に導入する手法です。液体クロマトグラフィー (LC) とのオンライン接続が容易であり、分析の前処理を簡略化できる点が大きな特長です。
発見の経緯と原理
ESIの先駆的な研究は、古くはマクスウェルやザドロビッチによって行われていましたが、生体高分子への適用に向けた開発は、イェール大学のジョン・フェン教授らによって精力的に進められました。フェン教授らは、1980年代後半に、タンパク質のような大きな分子が、溶液から直接、多数の電荷を帯びた状態で気相イオン化できることを発見し、この技術を確立しました。
ESI法の原理は以下の通りです。
- 溶液の噴霧: アナライト分子を含む溶液を、帯電した細いキャピラリーの先端から、高電圧(数 kV)を印加しながら噴霧します。キャピラリー先端にかかる電界強度がある閾値(Taylorコーンの形成条件)を超えると、液体の表面張力に打ち勝って微細な液滴が生成されます。
- 溶媒の蒸発: 生成した液滴は、加熱されたエンベロープガス(通常は窒素ガス)の流れに乗って移動しながら、溶媒が蒸発していきます。液滴が小さくなるにつれて、表面の電荷密度が増加します。
- 電荷集中とクーロン反発による分裂: 溶媒蒸発が進み、液滴表面の電荷間のクーロン反発力が表面張力に打ち勝つ点に達すると、液滴はさらに小さな液滴へと分裂します(クーロン爆発)。このプロセスが繰り返されることで、液滴はどんどん小さくなっていきます。
- ガス相イオンの生成: 最終的に、アナライト分子を一つだけ含む非常に小さな液滴になり、そこから直接アナライト分子がガス相イオンとして放出されるメカニズム(Charge Residue Model: CRM)や、液滴表面からイオンが放出されるメカニズム(Ion Evaporation Model: IEM)などが提唱されています。ESIの最大の特徴は、多価イオン(multiple charged ions)を生成することです。タンパク質のアミノ酸側鎖の塩基性残基(リジン、アルギニン、ヒスチジン)や酸性残基(アスパラギン酸、グルタミン酸)がプロトン化または脱プロトン化されることで、多数の電荷を持ちます。
[Analite in solution] --apply high voltage--> [Charged droplets]
[Charged droplets] --solvent evaporation--> [Smaller, higher charge density droplets]
[Smaller droplets] --Coulomb explosion--> [Even smaller droplets]
... repeating process ...
[Very small droplets] --> [Gas-phase multiple charged ions, e.g., [M+nH]n+]
ESI法は多価イオンを生成するため、巨大分子でも比較的低い m/z 範囲で検出が可能になります。これにより、四重極型 (Quadrupole MS) やイオントラップ型 (Ion Trap MS) といった、質量範囲に制限のある質量分析計とも接続可能となり、LC-MSやGC-MSといった分離・分析複合システムへの応用が飛躍的に広がりました。スペクトルには m/z が異なる多数のピークが現れますが、これらは同じ分子が異なる数の電荷を持ったイオン ([M+H]+, [M+2H]2+, [M+3H]3+, ...) であるため、隣り合うピークの電荷数を計算することで分子量を決定できます。
その後の発展と影響
MALDIとESIの開発は、質量分析法を化学の枠を超え、生命科学の基盤技術へと押し上げました。
- プロテオミクス: タンパク質の網羅的な研究であるプロテオミクスは、これらのソフトイオン化法によって爆発的に発展しました。MALDI-TOF MSは、ペプチドマスフィンガープリンティングによるタンパク質同定に広く用いられています。一方、ESI-MSは、液体クロマトグラフィーと組み合わせて(LC-ESI-MS/MS)、複雑なタンパク質混合物の解析、翻訳後修飾の解析、定量プロテオミクスなどに不可欠な技術となっています。多価イオンの生成は、MS/MS(タンデム質量分析)によるフラグメンテーションパターン解析において、イオンを効率よく分離し、より詳細な構造情報を得る上で非常に有利に働きます。
- 核酸分析: 巨大なDNAやRNAフラグメント、修飾ヌクレオチドの分析が可能になりました。特にMALDI-TOF MSは、PCR生成物やオリゴヌクレオチドの質量確認、SNP解析などに利用されています。
- 高分子化学: 合成ポリマーの分子量分布や末端基分析に革命をもたらしました。MALDI-TOF MSは、特に比較的均一な分子量分布を持つ合成ポリマーの精密質量測定に適しています。
- 医薬品開発: 新薬候補化合物のスクリーニング、代謝物解析、薬物動態研究、品質管理において、LC-ESI-MS/MSが高感度かつ特異的な検出手段として広く活用されています。
- 臨床検査: 特定のバイオマーカーの検出や、微生物の同定(MALDI-TOF MSによる菌体タンパク質のフィンガープリント解析)など、診断分野への応用も進んでいます。
これらの技術革新は、従来の質量分析では不可能だった分子レベルでの詳細な解析を可能にし、新しい研究分野を切り開き、既存分野の研究速度を劇的に加速させました。
関連分野との繋がり
MALDIおよびESIは、化学、物理学、生物学の知識が融合して生まれた技術です。
- 物理学: イオン化の原理(レーザーアブレーション、電荷集中、電界噴霧)や質量分析計の設計・動作原理(電磁気学、粒子光学)は物理学に基づいています。
- 生物学・生化学: 分析対象が生体分子であることが多く、これらの技術はタンパク質科学、ゲノミクス、メタボロミクスといった生物学の様々な分野で、分子の同定、定量、構造解析、相互作用解析に利用されています。
- 分析化学: これらは現代分析化学における最も重要なツールの一つであり、分離技術(クロマトグラフィー)や前処理技術との組み合わせにより、複雑なサンプル中の微量成分を分析する能力が飛躍的に向上しました。
- 材料科学: 合成ポリマーやナノ材料など、様々な新規材料のキャラクタライゼーションに利用されています。
今後の展望
MALDIとESIはすでに成熟した技術ですが、その応用範囲は今も拡大を続けています。
- イメージング質量分析 (Imaging MS): MALDIは組織切片上に塗布されたマトリックスを利用して、特定の分子(薬物、代謝物、タンパク質など)の組織内での分布を可視化するイメージング質量分析法として発展しています。ESIもAmbient Ionizationと組み合わせることで、生体試料表面を直接分析する手法が登場しています。
- 高分解能・高精度化: OrbitrapやFT-ICRのような高分解能質量分析計と組み合わせることで、より精密な質量測定と分子式決定が可能になっています。
- イオンモビリティ質量分析 (Ion Mobility Spectrometry-Mass Spectrometry, IM-MS): イオンの質量電荷比だけでなく、サイズや形状に関する情報を加えることで、異性体分離やコンフォメーション解析が可能になっており、これらのソフトイオン化法との組み合わせが盛んに研究されています。
- データ解析の進化: 生成される膨大な質量分析データを効率的に解析するためのバイオインフォマティクスや機械学習の活用が進んでいます。
まとめ
MALDIとESIは、従来の質量分析法では解析が困難であった巨大な生体高分子や高分子を、分解することなく穏やかにイオン化することを可能にした、分析化学史上の画期的な技術です。これらのソフトイオン化法の開発により、質量分析法は、分子の質量を測るだけの技術から、生命現象を分子レベルで解明するための不可欠なツールへと進化しました。プロテオミクス、医薬品開発、診断など、その影響は化学分野に留まらず、広範な科学技術の発展に計り知れない貢献をしています。ノーベル化学賞は、この技術が基礎科学および応用科学にもたらした変革の大きさを正当に評価したものであり、現代の化学・生命科学研究を支える基盤技術としてのその重要性は、今後も揺らぐことはないでしょう。